2012年1月10日火曜日

120110 インベーダーゲームの代わりにAppleⅡ、PET2001、TRS-80を検討

こんにちはHousukeです。

パソコンをまだマイコンと呼んでいた、79年頃の話です。Housukeはオーディオ機器のメーカに勤めていました。作れば売れる時代でしたので、残業は毎日 2~3時間は当たり前でした。 その残業のあとで、どうしてもやりたいことがありました。それはデートでも酒を飲みに行くことでもなく、スペースインベーダーゲームをすることでした。

👾 当時の雑誌 👾

目的のインベーダーゲームのある場所は喫茶店です。ほぼ満席で、ゲーム機のある席は順番待ちです。日記に、"'79/4/6(金)モナリザ(喫茶店名)で 6000点までいった"と書いてあります。残業 2~3時間で稼いだ残業代は、全部インベーダゲームに消えていたと思います。

👾 インベーダゲームの画面 👾

インベーダーゲーム機の販売台数は正規品だけで 20万台、店舗導入価格は最盛期には 100万円/台を超えたようです。大雑把ですが、ゲーム機だけで数千億円の売上、店舗の売上はそれの数十倍、‘歴史に残る爆発的なヒット作’と言われていることも納得できます。100円玉が不足し日本銀行が平月の3倍の量を供給したなど、たくさんの都市伝説を残しました。
(参考:Wikipedia)

この頃の日記には、秋葉原にマイコンを探しに行ったと何回か書いてあります。お金のかかり過ぎるインベーダーゲームを自前のマイコンでやろうと考えていました。

👾 秋葉原(イメージ) 👾

マイコンと言っても、LSI単品やマイコンボードのことではなく、キーボード、モニター、記憶装置(といっても主流はカセットプレーヤ)がセットになった、現在のパソコンの原型ともいえるものです。
3モデルが候補でしたが、どれも海外製です。
日本製はソード(後の東芝の子会社)製がありましたが、価格も販売ルートも素人が手を出せるものでは無かったと思います。

👾 アップルコンピュータ社製 AppleⅡ '77年発売 👾

ご存知、天才スティーブ・ジョブスの大ヒット作です。軽い整数BASICとフルグラフィック機能標準装備でホームユーザ、表計算ソフトでビジネスユーザをターゲットにした販売戦略で、奇跡のような台数を販売しました。
アップルはこの当時から最先端の高性能な部品を惜しまず使い、最高の品質・性能を誇っていました。本体にカセットレコーダが付いたセットで60万円(購入した職場の後輩が自慢していました)と、断トツに高価でした。
販売台数:60万台以上(総生産台数:500万台/Wikipedia) 


👾 コモドール社製 PET2001 '77年発売 👾

本体の上に台形のモニターを合体した、当時は未来的なデザインでした。キーボードは碁盤の目のように配置されたもので、テンキーも付いていましたが、操作性は良くなかったと思います。
販売台数:約250万台


👾 タンディ・コーポレーション社製/ラジオシャック社販売 TRS-80 ’77発売👾

CPU本体にキーボードが合体していて、モニター、カセットプレーヤで最小のシステムを構成します。モニター画面サイズは最大64×16文字の大きさがあり、数値データ形式は整数の他に、倍精度や長精度を備えていて、業務ユースにも対応する演算能力がありました。本家アメリカのマーケットでは、Appleに劣らない本格的な業務用アプリが流通していました。
販売台数:20万台以上


👾 パソコンを購入👾
結局、タンディの“TRS-80”を購入しました。日記に“'79/5/13(日)、24万円でマイコンを買ってきた”とあります。ハード構成は前の画像と同じ、本体/白黒モニター/カセットレコーダーでした。
≣販売店≣
販売店は、今となってはネットを探っても痕跡すらありませんが、秋葉原駅から不忍通りに出て左側のビルの 1Fの一画にありました。TRS-80本体と周辺機器だけを扱う、展示会場のような感じでした。

アメリカ本土のパンフレットの価格が599.95、当時のドル円レートは220円くらいだったので、日本円に換算すると約13,200円になります。単発輸入とはいえ、倍近い価格で買ったことになります。
≣’70年代のドル円レート≣
価格は、今になって考えれば納得できませんが、サービスはよかったと思います。数か月後、キーボードを仮名文字対応へ改造するために本体を持ち込みましたが、タダではありませんが、丁寧に対応してくれました。


次回は、国産のパソコンの躍進のお話をしたいと思います。
お楽しみに...