2012年1月15日日曜日

120215 インベーダーゲームの代わりにAppleⅡ、PET2001、TRS-80を検討Ⅱ

こんにちはHousukeです。

前回『インベーダーゲームの代わりにAppleⅡ、PET2001、TRS-80を検討』の続きです。
👾タンディTRS-80 👾
TRS80でインベーダーゲームをすることはありませんでした。土台無理な話で、グラフィック機能はなく、1バイト文字領域を6分割した擬似グラフィック文字を代用する粗いものでした。
<TRS-80の擬似グラフィック文字>
使用できる言語も恐ろしく重たいBASICインタープリタだけで、今調べても他に選択肢はなかったようです。
<TRS-80のBASICの取説>
画像はアマゾンで見つけた中古のBASICのガイドです。こんなような十数ページの冊子が付いていました。


数年後、NECから PC8001が発売されます。このPC8000シリーズが国産パソコンのフラッグシップであったことは異論のないところだと思います。
👾 NEC PC8001(1979年9月発売 販売数:25万台) 👾

価格は勿論のこと、性能でも、海外製のApple,Tandy,PETを凌駕していました。
ただ、発売当初は使えるソフトが無く、遠い記憶ですが順調に売れ出したのは発売から一年以上経ってからだったと思います。NEC PC8001の販売が伸びるに連れて“パソコン(以降PCと言います)”というネーミングも広がっていきました。

80年代は国産PC時代の始まりでした。
👾 シャープ MZ-80(1978年12月発売 販売数:10万台以上) 👾
クリーンコンピューターというネーミングで登場しました。電源を入れた時は、ただの箱同然のクリーンなコンピューターが、BASICインタープリタ入りのカセットテープを読込んだ途端に、高級言語(BASIC)で操作できるコンピューターになるという意味です。他に使える言語があったかというと、たしか最後までメーカーからの供給は無かったと思います。BASIC ROMを省いたことが大きく寄与したと思いますが、競合メーカのなかでは一番安価でした。
勤めていた工場の生産ラインでも自動検査の治具として10台くらい使っていました。当時プログラムで自動的に動く測定器は、HP社製であることはありましたが、価格が一桁高かったと思います。

👾 日立 ベーシックマスター L3(1980年5月発売) 👾
BASICプログラムの移植を頼まれたことがあります。厚手の鉄板製シャーシで、えらく重かったことを覚えています。初のフルグラフィックでしたが、テキスト文字もグラフィック領域に書いていたので、テキスト文字の表示はヌルヌルと鈍い感じでした。


この後、東芝、富士通、SONY、Panasonicなどの大手メーカーが続き、周辺機器でも、TEACやパイオニアや、メルコだのロジテックなどと聞いたことがないメーカーも一斉に参戦します。
国産PCの生産台数は、NECだけでも 2000万台(~98年)だそうです。商店街の小さな電気屋さんにも、一式百万円くらいする大手メーカーのPCが必ず置いてありました。
誰もが日本の半導体技術は世界一だと思っていました。


爆発的に増えたPC(当時はまだマイコンと呼んでいました)に対して、それを扱えるエンジニアが不足していました。
Housukeも、趣味の電子工作つながりで、大手社員のかたわら二足のわらじでプログラムを書いて売るようになりました。そのとき板橋の機械工具の問屋さんの社長と知り合いになり、販売管理や生産管理などのパッケージソフトを制作・販売しました。
👾 二足のわらじで販売したパッケージソフト 👾
('87/11日経コンピュータに紹介記事掲載)
ちなみにこの時のライバル会社は、今でも残っている“弥生会計”、当時の社名は“ミルキーウエイ“一社だけでした。
このあと、OSがWindowsになる'95年より少し前には、Housukeには太刀打ちできなくなって二足のわらじは止めました。この頃、思ったほど頭の良くないことを自覚してきていました。調子に乗ってスティーブジョブズ気取りで起業なんかしていたら、多分今の安定した年金生活は無かったと思います。危ないところでした。


👾 日本製のPCが一気に海外製PCに入れ替わった 👾
2000年より少し前だったと思いますが、出向していた子会社でオンライン端末を増設するときに、本社のシステム情報部から“DELLのPCが安くていいよ”、と連絡がありました。確か、1台 9万円くらいでDELLのGX100を 5~6台注文した記憶があります。
☞  デル、10万円を切るモデル『OptiPlex GX100』を発表 
CPUやメモリなどオーダーメイド形式で指定し、生産・発送進捗をインターネット(と言っても電話回線)で照会できるようになっていました。

その前に導入したオンライン端末には、40万円のPC98に 60万円もするISDNへ繋ぐためのIBM製のVTAM基板を付けて、一台当たり100万円を使っていました。
DELLのPCを導入した時は、本社のメインフレームとはWAN経由で繋がるようになったこともあって、オンライン端末の費用が10分の1以下になりました。

この時、日本製のPCが一気に海外製PCに入れ替わった印象が強く残っています。
オンライン端末の費用10分の1はいくらなんでも衝撃でした。

海外製PCは、80年代中ごろからDOS/V規格(IBM PC/AT Compatibles)で統一されてきます。ユーザーはメーカーやブランドが違っても一々使い方を覚える必要がないので、この上なく使いやすくなります。それだけでなく数量効果によって周辺機器やソフトウエアをより安価に導入することができます。
一方の、日本製のPCは各メーカーの仕様が違うので、周辺機器やソフトウエアがそれぞれ専用に開発・販売されていました。
日本のPCメーカーも、90年代に入ってDOS/V対応に舵を切りますが、運の悪いことに、この時は強烈な円高の真っ最中でした。
グラフは JIJI.COMニュースからお借りしました
海外製PCとの価格差を縮めることができないで急速にシェアを失っていきます。このあとは誰もがご存知のように、海外製PCはさらに価格が安くなっていって、先進国だけでなく あまりお金のない国・地域にまで広く普及していきます。

2012年1月10日火曜日

120110 インベーダーゲームの代わりにAppleⅡ、PET2001、TRS-80を検討

こんにちはHousukeです。

パソコンをまだマイコンと呼んでいた、79年頃の話です。Housukeはオーディオ機器のメーカに勤めていました。作れば売れる時代でしたので、残業は毎日 2~3時間は当たり前でした。 その残業のあとで、どうしてもやりたいことがありました。それはデートでも酒を飲みに行くことでもなく、スペースインベーダーゲームをすることでした。

👾 当時の雑誌 👾

目的のインベーダーゲームのある場所は喫茶店です。ほぼ満席で、ゲーム機のある席は順番待ちです。日記に、"'79/4/6(金)モナリザ(喫茶店名)で 6000点までいった"と書いてあります。残業 2~3時間で稼いだ残業代は、全部インベーダゲームに消えていたと思います。

👾 インベーダゲームの画面 👾

インベーダーゲーム機の販売台数は正規品だけで 20万台、店舗導入価格は最盛期には 100万円/台を超えたようです。大雑把ですが、ゲーム機だけで数千億円の売上、店舗の売上はそれの数十倍、‘歴史に残る爆発的なヒット作’と言われていることも納得できます。100円玉が不足し日本銀行が平月の3倍の量を供給したなど、たくさんの都市伝説を残しました。
(参考:Wikipedia)

この頃の日記には、秋葉原にマイコンを探しに行ったと何回か書いてあります。お金のかかり過ぎるインベーダーゲームを自前のマイコンでやろうと考えていました。

👾 秋葉原(イメージ) 👾

マイコンと言っても、LSI単品やマイコンボードのことではなく、キーボード、モニター、記憶装置(といっても主流はカセットプレーヤ)がセットになった、現在のパソコンの原型ともいえるものです。
3モデルが候補でしたが、どれも海外製です。日本製はソード(後の東芝の子会社)製が既にありましたが、素人が手を出せる家電メーカ製はまだありません。

👾 アップルコンピュータ社製 AppleⅡ '77年発売 👾

ご存知、天才スティーブ・ジョブスの大ヒット作です。軽い整数BASICとフルグラフィック機能標準装備でホームユーザ、表計算ソフトでビジネスユーザをターゲットにした販売戦略で、奇跡のような台数を販売しました。
アップルはこの当時から最先端の高性能な部品を惜しまず使い、最高の品質・性能を誇っていました。本体にカセットレコーダが付いたセットで60万円(購入した職場の後輩が自慢していました)と、断トツに高価でした。
販売台数:60万台以上(総生産台数:500万台/Wikipedia) 


👾 コモドール社製 PET2001 '77年発売 👾

本体の上に台形のモニターを合体した、当時は未来的なデザインでした。キーボードは碁盤の目のように配置されたもので、テンキーも付いていましたが、操作性は良くなかったと思います。
販売台数:約250万台


👾 タンディ・コーポレーション社製/ラジオシャック社販売 TRS-80 ’77発売👾

CPU本体にキーボードが合体していて、モニター、カセットプレーヤで最小のシステムを構成します。モニター画面サイズは最大64×16文字の大きさがあり、数値データ形式は整数の他に、倍精度や長精度を備えていて、業務ユースにも対応する演算能力がありました。本家アメリカのマーケットでは、Appleに劣らない本格的な業務用アプリが流通していました。
販売台数:20万台以上


👾 パソコンを購入👾
結局、タンディの“TRS-80”を購入しました。日記に“'79/5/13(日)、24万円でマイコンを買ってきた”とあります。ハード構成は前の画像と同じ、本体/白黒モニター/カセットレコーダーでした。
≣販売店≣
販売店は、今となってはネットを探っても痕跡すらありませんが、秋葉原駅から不忍通りに出て左側のビルの 1Fの一画にありました。TRS-80本体と周辺機器だけを扱う、展示会場のような感じでした。

アメリカ本土のパンフレットの価格が599.95、当時のドル円レートは220円くらいだったので、日本円に換算すると約13,200円になります。単発輸入とはいえ、倍近い価格で買ったことになります。
≣’70年代のドル円レート≣
価格は、今になって考えれば納得できませんが、サービスはよかったと思います。数か月後、キーボードを仮名文字対応へ改造するために本体を持ち込みましたが、タダではありませんが、丁寧に対応してくれました。


次回は、国産のパソコンの躍進のお話をしたいと思います。
お楽しみに...