👾タンディTRS-80 👾
TRS80でインベーダーゲームをすることはありませんでした。土台無理な話で、グラフィック機能はなく、1バイト文字領域を6分割した擬似グラフィック文字を代用する粗いものでした。
TRS80でインベーダーゲームをすることはありませんでした。土台無理な話で、グラフィック機能はなく、1バイト文字領域を6分割した擬似グラフィック文字を代用する粗いものでした。
<TRS-80の擬似グラフィック文字>
使用できる言語も恐ろしく重たいBASICインタープリタだけで、今調べても他に選択肢はなかったようです。
<TRS-80のBASICの取説>画像はアマゾンで見つけた中古のBASICのガイドです。こんなような十数ページの冊子が付いていました。
数年後、NECから PC8001が発売されます。このPC8000シリーズが国産パソコンのフラッグシップであったことは異論のないところだと思います。
数年後、NECから PC8001が発売されます。このPC8000シリーズが国産パソコンのフラッグシップであったことは異論のないところだと思います。
👾 NEC PC8001(1979年9月発売 販売数:25万台) 👾
価格は勿論のこと、性能でも、海外製のApple,Tandy,PETを凌駕していました。
ただ、発売当初は使えるソフトが無く、遠い記憶ですが順調に売れ出したのは発売から一年以上経ってからだったと思います。NEC PC8001の販売が伸びるに連れて“パソコン(以降PCと言います)”というネーミングも広がっていきました。
価格は勿論のこと、性能でも、海外製のApple,Tandy,PETを凌駕していました。
ただ、発売当初は使えるソフトが無く、遠い記憶ですが順調に売れ出したのは発売から一年以上経ってからだったと思います。NEC PC8001の販売が伸びるに連れて“パソコン(以降PCと言います)”というネーミングも広がっていきました。
80年代は国産PC時代の始まりでした。
👾 シャープ MZ-80(1978年12月発売 販売数:10万台以上) 👾
👾 日立 ベーシックマスター L3(1980年5月発売) 👾
この後、東芝、富士通、SONY、Panasonicなどの大手メーカーが続き、周辺機器でも、TEACやパイオニアや、メルコだのロジテックなどと聞いたことがないメーカーも一斉に参戦します。
👾 シャープ MZ-80(1978年12月発売 販売数:10万台以上) 👾
クリーンコンピューターというネーミングで登場しました。電源を入れた時は、ただの箱同然のクリーンなコンピューターが、BASICインタープリタ入りのカセットテープを読込んだ途端に、高級言語(BASIC)で操作できるコンピューターになるという意味です。他に使える言語があったかというと、たしか最後までメーカーからの供給は無かったと思います。BASIC ROMを省いたことが大きく寄与したと思いますが、競合メーカのなかでは一番安価でした。
勤めていた工場の生産ラインでも自動検査の治具として10台くらい使っていました。当時プログラムで自動的に動く測定器は、HP社製であることはありましたが、価格が一桁高かったと思います。
BASICプログラムの移植を頼まれたことがあります。厚手の鉄板製シャーシで、えらく重かったことを覚えています。初のフルグラフィックでしたが、テキスト文字もグラフィック領域に書いていたので、テキスト文字の表示はヌルヌルと鈍い感じでした。
国産PCの生産台数は、NECだけでも 2000万台(~98年)だそうです。商店街の小さな電気屋さんにも、一式百万円くらいする大手メーカーのPCが必ず置いてありました。
誰もが日本の半導体技術は世界一だと思っていました。
爆発的に増えたPC(当時はまだマイコンと呼んでいました)に対して、それを扱えるエンジニアが不足していました。
Housukeも、趣味の電子工作つながりで、大手社員のかたわら二足のわらじでプログラムを書いて売るようになりました。そのとき板橋の機械工具の問屋さんの社長と知り合いになり、販売管理や生産管理などのパッケージソフトを制作・販売しました。
👾 二足のわらじで販売したパッケージソフト 👾
('87/11日経コンピュータに紹介記事掲載)
ちなみにこの時のライバル会社は、今でも残っている“弥生会計”、当時の社名は“ミルキーウエイ“一社だけでした。
ちなみにこの時のライバル会社は、今でも残っている“弥生会計”、当時の社名は“ミルキーウエイ“一社だけでした。
このあと、OSがWindowsになる'95年より少し前には、Housukeには太刀打ちできなくなって二足のわらじは止めました。この頃、思ったほど頭の良くないことを自覚してきていました。調子に乗ってスティーブジョブズ気取りで起業なんかしていたら、多分今の安定した年金生活は無かったと思います。危ないところでした。
👾 日本製のPCが一気に海外製PCに入れ替わった 👾
2000年より少し前だったと思いますが、出向していた子会社でオンライン端末を増設するときに、本社のシステム情報部から“DELLのPCが安くていいよ”、と連絡がありました。確か、1台 9万円くらいでDELLのGX100を 5~6台注文した記憶があります。
☞ デル、10万円を切るモデル『OptiPlex GX100』を発表
CPUやメモリなどオーダーメイド形式で指定し、生産・発送進捗をインターネット(と言っても電話回線)で照会できるようになっていました。
その前に導入したオンライン端末には、40万円のPC98に 60万円もするISDNへ繋ぐためのIBM製のVTAM基板を付けて、一台当たり100万円を使っていました。
DELLのPCを導入した時は、本社のメインフレームとはWAN経由で繋がるようになったこともあって、オンライン端末の費用が10分の1以下になりました。
CPUやメモリなどオーダーメイド形式で指定し、生産・発送進捗をインターネット(と言っても電話回線)で照会できるようになっていました。
その前に導入したオンライン端末には、40万円のPC98に 60万円もするISDNへ繋ぐためのIBM製のVTAM基板を付けて、一台当たり100万円を使っていました。
DELLのPCを導入した時は、本社のメインフレームとはWAN経由で繋がるようになったこともあって、オンライン端末の費用が10分の1以下になりました。
この時、日本製のPCが一気に海外製PCに入れ替わった印象が強く残っています。
オンライン端末の費用10分の1はいくらなんでも衝撃でした。
海外製PCは、80年代中ごろからDOS/V規格(IBM PC/AT Compatibles)で統一されてきます。ユーザーはメーカーやブランドが違っても一々使い方を覚える必要がないので、この上なく使いやすくなります。それだけでなく数量効果によって周辺機器やソフトウエアをより安価に導入することができます。
一方の、日本製のPCは各メーカーの仕様が違うので、周辺機器やソフトウエアがそれぞれ専用に開発・販売されていました。
日本のPCメーカーも、90年代に入ってDOS/V対応に舵を切りますが、運の悪いことに、この時は強烈な円高の真っ最中でした。グラフは JIJI.COMニュースからお借りしました
海外製PCとの価格差を縮めることができないで急速にシェアを失っていきます。このあとは誰もがご存知のように、海外製PCはさらに価格が安くなっていって、先進国だけでなく あまりお金のない国・地域にまで広く普及していきます。
日本のPCメーカーも、90年代に入ってDOS/V対応に舵を切りますが、運の悪いことに、この時は強烈な円高の真っ最中でした。グラフは JIJI.COMニュースからお借りしました
海外製PCとの価格差を縮めることができないで急速にシェアを失っていきます。このあとは誰もがご存知のように、海外製PCはさらに価格が安くなっていって、先進国だけでなく あまりお金のない国・地域にまで広く普及していきます。